これぞ仙台歴史ロマン★城の表鬼門は定禅寺、裏鬼門はだれにもわからない【宮城歴史浪漫シリーズvol.03】

歴史

星の街の鬼門封じ人、ユーホーです。

この物語は続きものになっています。是非vol.1からご覧ください。

【鬼門】とは、北東から鬼がやってくるのを防ぐために、二人の神様を門番に置いて都を守る、という中国から入ってきた考え方。
日本では、いつのまにか忌み嫌われる方角となっていったのですが、本場中国では艮(うしとら)は物事が生じ変化する門、新風が通る場所であり、変化、交代、改革などの意味合いがあるようです。

ところで、鬼は頭に角、虎皮のパンツというスタイルなのは、なんで?

ズバリ鬼門方位は、丑と寅に挟まれたこの60度の範囲だから。

 

仙台城の鬼門は定禅寺

今の県庁がある勾当台から本町にかけて、定禅寺を筆頭とした寺社群がありました。

古地図を見るとその一角だけが、町割りに逆らって城の方角を向いているのがわかります。

宮城県立図書館 叡智の杜
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1664年の仙台城下絵図が見れます!この絵図を出力して、実際に自分で六芒星を描いてみてください(このときまだ榴岡天満宮は描かれていませんが、大体の位置はわかります)。400年前にタイムスリップするような感覚にとらわれてコーフンしますヨ、マジで、歴オタさんなら間違いなくムフムフ…

もちろん現代の地図でも確認できるので是非見てみてくださいな。

定禅寺は正式な鬼門として幕府に公表していたのだけど、しかし、定禅寺の先には仙台東照宮があります。

【仙台東照宮】

二代藩主忠宗公のときに建てられました。幕府へは、’徳川家康公が岩出山城を作りに行く途中に休憩をとった場所’ という選定理由でした。

岩出山城とは

政宗公が山形の米沢城にいる時に、豊臣秀吉の仕置に合い、領地を没収され岩出山(当時は岩手沢といった)へ行けと命令されました。その城の縄張りを行ったのが徳川家康なのです。その時、正室愛姫は秀吉の人質として、京都の聚楽第へ行かされました。

*政宗公は山形の米沢城で生まれ育ち、21歳くらいのとき岩出山へ、12年ほど居てから仙台城開府となります。

忠宗公は、家康公の分霊許可をもらう前年に、玉手埼(現東照宮の場所)の天神社に行き、そこから見えるところの確認(測量や見通し)をしています。

ただ眺めただけではなく、つねに軍事的に敵を見張ることを考えて建物や街道の配置を研究していたのです。

六芒星の15度の傾きは、正確な鬼門方位に合わせるため

もしもこの星形が東西南北に正対していたら、星の頂点に鬼門(東照宮)を置くことができなかったのです。

東照宮のある玉手埼には、政宗公以前の領主だった国分氏の時代から、天神社がありました。

仙台城が出来る前は、青葉山には国分氏の支城があり、天神社はその鬼門だったと考えられますね。

国分氏は政宗公の叔父にあたる人ですが、政宗公が支配下に置いて国分町に住まわせたのです。

東北随一のネオン街国分町は、国分氏が由来なんですね。そして国分町通りの北側突き当りは、政宗公の御霊を祀る青葉神社。

そんなことな~~~んにも知らずに、へべれけで飲み歩いていた若かりし頃・・・(遠い目)

 

さて、そうなると裏鬼門はどこなんでしょう?普通ありますよね。表鬼門を正式に報告してたんだから。

でも、どんなに調べてもわかりません。師匠のイナベノ晴明にもわかりません。

考えられるのは、あったんだけどとっくに廃寺になって、記録も見つかっていない、というか、裏鬼門を血まなこになって探してるヘンタイって、あたしくらい?

ところが最近、私はデジタルマップをオニのようにガン見しながら鬼門ラインを引っ張っていたら、え、ここなんじゃネ? という場所が見つかったんです。

でも、その場所の由来は調査中なので、いずれまたいつか…

 

次回は【青葉神社に真田幸村の家臣の子孫がやってきた!】へつづく

イラストAC

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出典:星の街仙台


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