1300年以上前から現代まで4回遷座(せんざ)された『閖上湊神社』~鳥居は伊勢神宮から譲り受ける!~【宮城歴史浪漫シリーズvol.47】

おでかけ

東日本大震災により、壊滅的な被害を受けた名取市閖上地区。5000人が住んでいた町が更地になり10年。復旧からのグランドデザインには、目を見張る勢いを感じているユーホーです。

-蝦夷討伐当時(8世紀、奈良時代)に、大和朝廷では蝦夷各地の重要な川口に水門(みなと・湊)と称し、その鎮守のために不動明王などの五大明王を祀る風習がありました。当時の「ゆりあげ浜」にも明神堂付近、現在の名取川になっている地点に「ゆりあげ五大明王神堂」として祀られていたのが起源とされていますー閖上湊神社 (yuriageminatojinja.org)

20年に1度、伊勢神宮(三重県伊勢市)で行われる社殿を一新する式年遷宮「遷御(せんぎょ)の儀」。

解体された旧社殿の柱などは、全国の神社に譲渡され、建物の修復などに使われているそうです。

現在地に再建された閖上湊神社の鳥居も、伊勢神宮から譲り受けたものです。

閖上湊神社は、私の調べた限りでは4回遷座しているようです。

1300年以上前に、起源となった明神堂は正確な場所は不明ですが名取川近辺(あんどん松のそば)にあったらしい。

その後伊達政宗公が行った河川改修工事によって①あんどん松の下(明神堂地内)に移されたらしい。

1611年に慶長の大津波でこの一帯は壊滅したはずですが、その記録が不明。

その後1657年に閖上2丁目に遷座し、このとき別当として物聞寺があったようですが、おそらく廃寺となって資料も乏しく不明。物聞寺に移ってから、明治の神仏分離で寺の近くのこの場所に移ったと考えられる。

2011年、東日本大震災で流出し社殿を失ったため日和山へ勧請されたと思われる。ここにはすでに湊神社から遷座された富主姫神社の社殿があった。(津波で流出し再建されたとき湊神社も合祀)

2020年、かわまちてらすの南側に新社殿竣工。

まわりは新興住宅街になっています。(社殿と鳥居は南西を向いている)

完成予想図からいうと、現時点で手水舎と神楽殿がありません。桜も苗木です。

未曽有の大災害に遭遇しながらも、閖上の歴史を思い、次の世代に継承すべき遺産を再建する努力に感服いたします。

いまだ復興の最中、神社再建には多大な費用を要します。復旧奉賛金のお願い

閖上のシンボルとして唯一残った日和山

蒲生干潟にも同名の日和山(国土地理院に日本一低い山で認定)がありますが、閖上は大正9年に在郷軍人分会が発起し、勤労奉仕による工事で築かれました。

出漁する漁師が天候を日和(ひよ)る—予測する目的で作られた築山です。

山頂には湊神社の末社富主姫神社と、震災後合祀された湊神社が祀られ、海上安全・大漁満足の守護として鎮座しています。

山頂からは、更地となった閖上地区が360°見渡せます。鎮魂の場として、南隣には「祈りの広場」などメモリアル公園が整備されています。

山頂から南を臨む(祈りの広場)

日和山の参道と鳥居は、冬至の日の出の方角を向いているので、冬至の朝は、太陽が鳥居をくぐって昇ってくるはずです。

山頂から海側を臨む

👇冬至の日の出を鳥居の中から見た想像図です。

 

👇vol.46で紹介した大年寺の惣門から見た彼方は閖上です。

 

👇vol.05で紹介した愛宕神社の山頂の鳥居です。

 

👇青葉城址の冬至の日の出の位置は「懸け造跡」です。

つまり、青葉山~愛宕山・大年寺山~閖上は、冬至の日の出のレイラインで繋がる史跡というわけです。

自分が4人いたら、冬至の朝、同時にこの4つの聖地に立って、生まれ変わる太陽のエネルギーを一身(四身?)に浴びてみたい。

出典:星の街仙台

*使用地図は掲載許可を得ています。研究内容・画像の無断転用を禁じます。

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