その1より続きます。縄文時代を知るにつれ、タイムスリップできるならこの時代も楽しそうだなと思い始めるユーホーです。
松島湾の東北部に位置する野蒜海岸や宮戸島一帯を奥松島(東松島)と呼びます。
宮戸島は松島湾に浮かぶ島の中で最大の面積を持ち、南端には日本三大渓の一つにも数えられる嵯峨渓があります。
奥松島縄文の村歴史資料館で、縄文人の暮らしを勉強したあとは、是非、里浜貝塚のある浜辺の散策をお勧めします。
実際に縄文人の暮らしが4千年続いたエリアで、当時とほぼ変わらぬ風景を見ることができます。
これぞまさしく、”手つかずの自然”を残している(イヤ、残すよう管理してくださってる)聖地です。
里浜貝塚
歴史資料館から10分ほど、民家の間をぬって歩き坂道を上っていくと、貝塚観察館があります。
そこから坂道を下っていくと、海が見えてきます。
夏の午後4時頃、ひとっこひとりいません。
鳥のさえずりとヒグラシの大合唱、そして縄文人が見た原風景の中にたたずむ自分だけの世界。
宮戸地区は、太平洋に面しているみっつの浜(月浜、大浜、室浜)が、311の津波で被災しましたが、里浜は湾になっており甚大な被害は避けられました。
実際散策してみてわかることですが、里浜の後ろ側は高台になっていて、津波が来ても即座に避難できる地形になっています。
縄文人もそれを知っていたのでしょう、この場所に集落を作ったのがわかるような気がします。
塩づくり場と貝塚(ゴミ集積所及び墓地)がそれぞれ3か所あるので、みっつの集団が暮らしていたと思われます。
北貝塚のある浜辺では潮干狩りや漁労が行われていたので、ここは共同の漁場でしょうか。
*奥松島縄文村歴史資料館内の説明板より~撮影及び掲載許可済
この浜から、西貝塚へと登っていくと、東屋(展望台)があり、そこから湾を見下ろすことができます。
この山は、民家が無く手つかずの森で、ブルーと赤のリボンを道しるべに進んでいきます。
平地が多く日当たりも良いので、住居を構えるには最適な環境ですね。
ここが西貝塚です。
ここから道を下って、現代の集落へ出たら、左折して右折して坂道を上ると、お寺に出ます。
真言宗 大島山医王寺
息を切らして上った坂の頂上で、目に飛び込んでくる山門前の石碑の数がすごい。
大高森の北西、薬師山(標高68.3m)の中腹に位置する薬師堂のご本尊は、慈覚大師作と伝えられる。薬師如来と、日光・月光・十二神将・不動明王・毘沙門天の仏像が奉安されている。平成25年度には、名称を「医王寺薬師堂」と改め、建造物が市指定文化財として登録された。
薬師堂までの途中に岩谷があり、これは伊達政宗がこの島に猟に来て射止めた鹿肉を煮ようとしたところ、老僧が現れ殺生禁断の地であることから調理を禁じたが政宗は受け入れなかった。
しかし鹿肉は煮えず、海中へ投棄し仙台へ戻った。後日、家来に命じて狩猟の衣を着たところ、衣はすべて灰となり、以後政宗は薬師如来の霊験あらたかなるを知り、自分の眼病治療のためこの地を訪れ祈願し平癒したという。
以後政宗は大いに信仰を深くし、この薬師山中腹に堂宇を建立したものとされる。
医王寺住職を別当とし、寺領として田や畑、山林を寄進し、屋根に家紋を入れ代々大切にされた。
医王寺薬師堂(里浜地区) | 宮城県 東松島市 | 全国観光情報サイト 全国観るなび(日本観光振興協会) (nihon-kankou.or.jp)より抜粋
仏教では、東を浄瑠璃界(現世-薬師如来)、西を極楽浄土(あの世-阿弥陀如来)としています。
つまり太陽の昇る(生まれる)東の海沿いにある医王寺はその名の通りですね。
医王寺の正面から竹藪へとずんずん進んでいきました。
竹藪を抜けると、途中、六地蔵や謎のトンネルがあります。
ここからは一般道へ出て、縄文村へ戻ります。
上ったり下りたり、休憩しながら散策して約1時間半。いい散歩コースです。
この間出会ったのは、車一台、猫3匹、犬の散歩をしていたおばあさん、のみでした。
コロナ禍に、密とは無縁の最高の観光コース!お勧めです。
今度は薬師堂の方へも足を延ばしてみたいし、遊覧船にも乗りたいし、キャンプ場(松島自然の家)も出来ましたしね。
宮戸島のほぼ中心に位置する大高森は、片道15分くらいで登れる山で、松島四大観のひとつ「壮観」と称される絶景です。眺望は360度の大パノラマ。
山頂から海に沈む夕日が見れたら、このうえなくすばらしいことでしょう。
(画像引用元:ホームページより)
奥松島縄文村歴史資料館 (satohama-jomon.jp)
981-0412 宮城県東松島市宮戸字里81-18