陰陽師?に守られ古墳の頂に鎮座する!?『伊達(いだて)神社』~加美郡色麻町【宮城歴史浪漫シリーズvol.61】

お寺/神社/史跡

県北をドライブ中、ムムムな神社を発見したユーホーです。

伊達政宗は「だてまさむね」と呼ばれていますが、もともとは「いだてまさむね」なのです。この神社も「いだてじんじゃ」と読みます。

宮城県の色麻町を流れる鳴瀬川の支流、花川にかかる花川橋のそばにあります。

この左手が境内になります。

457号線がカーブするそのアールに面して赤い鳥居と石の鳥居があり、車だと赤い鳥居をくぐるか、花川橋のたもとの小道を入っていくか。事前にグーグルマップでシミュレーションしておかないと、非常にわかりづらく、うっかり通り過ぎてしまいます。

赤い鳥居からも入れますが、交通量の多いカーブなので要注意です。

伊達神社 いだてじんじゃ

延暦年間(782年-806年)に坂上田村麻呂の東征の折に勧請されたという。一説には、この地にやってきた播磨国飾磨郡付近に住んでいた人々が、飾磨郡伊達の射楯兵主神社から射楯大神(五十孟神)を勧請したともいう。(←神社庁の動画によると、この説が有力視されているようです)

平安時代中期の『延喜式神名帳』には「陸奥国色麻郡 伊達神社 名神大」と記載され、名神大社に列した。

伊達氏が陸奥守となると、伊達氏に憚り、社名を祭神のうちの一柱である経津主神を祀る香取神宮にちなみ「香取社」に変えた。明治5年になり「伊達神社」へと名を戻した。~wikipediaより

もともとは「伊達神社」だったが、その約800年後に伊達政宗が国守となったことから、同じ「伊達」を伊達家に遠慮して、香取社に名前を変えたけど、明治になって「伊達」へと戻されたということですね。

御山古墳

鬱蒼(うっそう)とした木々に囲まれているので、言われてみないと気づきませんが、直径約50メートル、高さ約6メートルの円墳の上に社殿は建っています。

古墳時代中期の古墳といわれており、多くの円筒埴輪が見つかっています。

昔、田畑を造成する際に出る残土を集めて小山に固め、その上に農耕に関わる神様を祀るということはよくあったといいます。

が、ここは埴輪が出土していることと、一説では土地の有力者の墓であろうといわれているようです。(←しかしこの説も確実な出所は不明です)

墓地はケガレチで、神社はイヤシロチ(パワースポット)に建立するハレの場所ですから、真逆の物が合体するにはワケがありそうです。

想像するに、坂上田村麻呂は、ここに眠る霊魂を封じ込める(土地の権力者に東征を邪魔させない)ために、わざわざこの古墳の上に戦勝祈願の神社を祀ったのではないでしょうか。

楼門(山門?)に「花山」という文字がありますが、これは山名なのか。

とすれば、本堂の横に鐘楼があることからも、神仏習合の時代には寺としての機能もあって、明治の神仏分離令で寺は廃寺となり、神社は「香取」から「伊達」に戻されて現在に残ったのか。

調べてもほとんど出てこないので、上記はあくまで筆者の想像です。

神仏習合とは、昔は神も仏も一緒という考え方で、寺が神社の経営も兼ねていた。神仏分離令とは、明治になってから寺(仏)と神社(神)を分けなさいという国の命。

神社の境内に鐘撞堂があるところは、神仏習合の名残(かつて境内に寺もあった)。

社殿

では、石鳥居からまっすぐ社殿へと登っていきましょう。

楼門(随身門)の両側には、普通は仁王様が立ちはだかっていますが、こちらは・・・

どなた?

木像は平安ファッションでした。
左の方はやや小柄で少し上向きの優し気な目元です。烏帽子のようなものをかぶっています。

右の方は大柄で顔つきもりりしく腰に太刀をさしているので、貴人を守る警護の武士と思われます。

想像するに、怨霊悪霊を鎮めるために祀ったとなれば、左の方は”陰陽師”のような気もしないでもない。当時活躍した伝説の陰陽師『安倍晴明』さんでしょうか…口元が破損し欠け落ちて空洞化しています。

この木像が平安時代の作だとしたら、かなり貴重なものだと思うのですが…

いずれにしても仁王様じゃなく、人間の姿の像は珍しいですね。

石段を30段ほど登ります。これが古墳の高さになりますね。

みっつめの鳥居です。

なかなか立派な社殿です。

右横にはご神木のイチョウと鐘楼があります。

古墳時代からの歴史がある古社ですから、文献も乏しいためか謎の多い神社です。

が、それゆえに妄想をかきたてられる、マニアックな神社&古墳萌えの方には、超お勧めのスポットです。

宮城県神社庁 (miyagi-jinjacho.or.jp)

伊達神社所在地:宮城県加美郡色麻町四竃字町3