これぞ仙台歴史ロマン★慶長遣欧使節 支倉常長は生きていた!?その2【宮城歴史浪漫シリーズvol.15】

歴史

こんにちは、歴史の真相発掘人ユーホーです。前記事(vol.14)の続きです。

道の駅おおさとで偶然見つけたその本がこれです。歴史研究において、このような貴重な研究書に出会うことも醍醐味です。

 

支倉常長は、黒川郡の人である

そう断言するのは、黒川郡大郷町の東光寺第九世 故 佐藤宗岳 師です。

郷土の歴史研究家でもあり、支倉常長においては第一人者ではないでしょうか。

長きにわたり貴重な史料を収集した調査研究成果の労作(昭和32年発行)は、50年以上経て大郷町教育委員会により再版されました。

 

支倉六右衛門常長さんは幼少期、叔父の家に養子に出され、川崎町の支倉地区で過ごし、青年になってから実父の領地がある現富谷市の東成田あたりに住んで結婚した、という記録があり、このあたりには常長さんの親戚縁者が多くいたようです。

あまり知られてはいませんが、富谷市と大郷町には隠れキリシタンの伝説があります。

富谷の西成田石積地区にいたキリシタンの「しいな」と言う人が、常長さんの娘の乳母をしていたといいます。

「しいな」と言う名前は、常長さんが訪問したヨーロッパの史料にも残されているほど、奥州のキリシタンの中では”上層部”だったと思われます。

石積地区には、デジタルマップを超拡大していくと「十文字」という場所がありますが、たぶんここに教会に見立てたお堂があったと推測します。

富谷には他にも数か所、キリシタン信仰のあった村が存在し、旧家では、隠れキリシタンを思わせる風習が残っています。

富谷町誌によると、ヨモギのお灸をするときに胸に十字を切る、お正月に門松の正面に藁で作った十字を飾る、など。

 

ソテロ神父が、政宗公から伝道の許しをもらい仙台藩で布教を開始したのは、1611年(慶長の大津波のとき)で、その2年後には常長さんと一緒にローマに渡航します。

その3年後には禁教令が出ていましたから、東北の伝道は宣教師からではなく信者から始まったといってもいいかもしれません。

富谷の西成田地区には350名以上のキリシタンがいたという記録もあり、これは仙台藩の総キリシタンのうち多数を占めると思われます。

黒川郡にキリスト教の隆盛を見たのは、常長さんの布教によるものではないかと、充分考えられるのです。

 

常長さんは生きてたんじゃない?という決定的な証拠

大郷町の「安戸-やすど」は支倉家の屋敷跡がある場所で、常長さんの孫と曾孫が住んでいたことから帰国後ここに隠棲したものの、街道沿いのためすぐに東成田字西光寺(隠れ人として目立たぬ山間)に移ったようです。*西光寺は地名、東光寺は寺名

↑現在の安戸地区

安戸の北にある桂蔵寺は、常長さんの孫と曾孫の墓がある。佐藤宗岳師は桂蔵寺の弟子だった。

↓こちらのHPに支倉氏の興味深い記述があります。

参考:臨済宗妙心寺派 日月山 桂蔵寺

 

東成田の支倉家中伊藤家では、常長から伝わったとされる所持品の中に、マリア観音小軸と常長宛ての表具料領収書が見つかっています。

『阿まと 六右衛門殿』辰正月十八日

あて名は、秘密布教がばれるのを恐れ旧住所の「安戸」を示したものであろうと。

日付けの辰年は、キリシタンを禁止した時代を除き、生存説が正しければ、

寛永5年(1628) 常長58歳

寛永17年(1640) 70歳

承応元年(1652) 82歳

となり、帰国2年後に死亡していないことは明らかで、「52歳で病死し光明寺(北山)に葬られた」という定説は覆されるのです。

西光寺(地名)のメモリアルパークの墓石には、[承應三年]とあり、84歳で死没したことが記されています。

常長さんの偉業が世に出てからは、お墓は公園として整備され観光資源となりましたが、それまでは山中をかきわけて奥まで入り込んだところに、ポツンと隠すように一基のみ、親族以外には知る人がいなかったでしょう。

こちらのお墓の近くにも「十文字」という地名があり、キリシタンがいたことを物語っています。

宗岳師によると、県内に3か所ある(青葉区北山の光明寺、川崎町の円福寺、大郷町のメモリアルパーク)常長さんのお墓のうち、大郷が有力であると、説得力を持って語っています。

家系伝承は、代々口伝で伝えられるものですが、厳しい弾圧の中関連史料(*)を残せなかったことと、常長さんが有名になるずっと以前からの口伝であるというところに、信ぴょう性が高いということです。*親族間で散逸してしまった記録あり

宗岳師の多年に渡る調査研究の末の結論を、ここでは概要しか紹介できませんが、なによりも、富谷と大郷は、禁教令が出ていたときにも隠れキリシタンたちが安泰に暮らしており、それはひとえに常長さんが帰国後、仙台藩の庇護を受けて伝道していたからと想像できるのです。

禁教令当時、キリシタンは一般的に「切死丹」と侮辱を込めた字で書かれましたが、仙台藩の資料では「吉利支丹」です。

政宗公はキリスト教に寛大な武将であったことが伺われます。

 

渡航から7年後、キリスト教の本場でローマ教皇から直々に洗礼を受けた(アジア人初)ドン・フィリッポ・ファシクラ・常長が、生きて戻ってきた。

政宗公にとっては、自分の目の代わりに「世界を見てきた偉人」です。

その常長さんを、そうやすやすと幕府の命で死なせるわけにはいきません。政宗公のことですから、家臣のひとりを死んだことにして匿うのは難しいことではないでしょう。

常長さんは間違いなく『お宝』を持ち帰っているはずですから。

常長さんの偉業が世に知られることになったのは、明治になってから。そして政宗公の墓所発掘は昭和20年。副葬品として金製ブローチやヨーロッパ伝来品が出てきたというわけです。

支倉六右衛門常長という人は、決して悲劇のヒーローではなく、政宗公の庇護のもと、悠々自適に80を過ぎるまで、布教をしながらひっそりと暮らした、幸せな余生だったと、佐藤宗岳 師の研究書から読み取ることができます。

 

以前バスツアーを催行した折、東光寺で見せていただいた、十字のマークが刻まれたお位牌。これは松島天麟院(キリシタン五郎八姫-政宗長女いろはひめ の菩提寺)の歴代住職の中のひとりであることが判明しました。

他に、天麟院の4人の住職が、東光寺にもいたことがわかりました。(東光寺は松島瑞巌寺の末寺)

十字の入った位牌は複数見つかっており、それらは東日本大震災で散乱した倉庫を整理しているときに、現在のご住職が発見したという、震災であらわれた歴史的史料です。

 

こちらもバスツアーで拝観させていただいた大和町の龍華院さん。全国でも珍しい木造2階建ての本堂です。

キリシタンを匿ったとされる隠し部屋もあるそうです。

参考:臨済宗 妙心寺派 當来山 龍華院(とうらいざん りゅうげいん)

 

次回は【支倉常長の墓は県内に4か所ある!?】へつづく

これぞ仙台歴史ロマン★慶長遣欧使節 支倉常長は生きていた!?その1【宮城歴史浪漫シリーズvol.14】

2020年3月29日

出典:星の街仙台


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