『閖上』の由来~大年寺の山門内から波打つ浜が見えたから~【宮城歴史浪漫シリーズvol.46】

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春分の日の出が待ち遠しいユーホーです。

江戸時代、仙台藩直轄の港だった「ゆりあげはま」は、半農半漁の地域で、仙台に魚介類や野菜などを売り栄えていました。

農業の方は、1611年の慶長の大津波により壊滅した漁村を立て直すため、政宗公は山間部から農民を募って海岸沿いに農地開発をしたのです。

明治になると、近辺の村が合併し、商業を兼業する世帯も増え活気があったといいます。

大年寺山の歴史

古墳時代には、山裾に横穴墓が造られました。中世には粟野大膳(あわのだいぜん)の居城と伝えられる茂ケ崎城が築かれ、その空堀や土塁の跡が残っています。

江戸時代に入り、仙台藩主第4代伊達綱村公が大年寺を創建し(1697)、伊達家の菩提寺としました。

絵図からもわかるように、仙台藩有数の大寺院でした。

明治になると、神仏分離・廃仏毀釈運動や伊達家の庇護を失ったことから衰退し、当時の姿をとどめているのは、墓所と惣門だけとなります。

「閖」の文字の誕生

1697年、4代藩主伊達綱村公が、大年寺(茂ケ崎)に参拝の折、山門内からはるか東方に見えた波打つ浜を「あれは何というところか」とお尋ねになりました。

近侍の者「ゆりあげはまにございます」

綱村「どのような文字を書くのか」

近侍の者「文字はありません」

綱村「では、門の内に水が見える故に『閖上』といたそう」

昔は、ビル群の彼方に太平洋が見渡せました。

【惣門】現在の大年寺本堂は惣門の右隣にあります。

大年寺山は、青葉山を起点とする冬至の日の出のレイライン上にある

想像図(冬至~翌年1月中は日の出の太陽が門をくぐってくる)

冬至の日の出のライン上には、粟野氏の足跡が点在しているため、政宗公以前からすでに粟野氏が築いたレイラインに、伊達氏が遺跡を置いていったことがわかってきました。

政宗公の若林城もこのライン上にあります。

奇しくも慶長の大津波からちょうど400年後、東日本大震災で再び閖上は被災しました。

あれから10年、復興が進み、朝市の再開やかさ上げされた住宅街が整備されました。

日和山に慰霊碑が建てられ、震災の伝承資料館「閖上の記憶」ができました。

津波で全壊した閖上湊神社は、移転・再建が始まり、伊勢神宮の式年遷宮で不要となった鳥居や古材を譲り受け、2020年12月に社殿が完成しました。

2016年公開の新海誠監督の映画「君の名は。」の着想は、震災発生直後の閖上で得たそうです。

閖上と大年寺山~青葉山は”太陽の道”で繋がっています。

 

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