平安時代、都の貴族たちがあこがれた多賀城に古代の建造物が復元中!~【宮城歴史浪漫シリーズvol.48】

おでかけ

こんにちわ、花見の穴場を知り尽くすユーホーです。ここもそう、多賀城政庁跡に行ってきました。

 宮城県多賀城市-多賀城政庁跡

-奈良・平安時代に陸奥国の国府が置かれたところで、奈良時代には鎮守府も併せ置かれていた古代東北の政治・軍事・文化の拠点。平安時代、都の貴族たちはこの地を「道奥-みちのく」の名であこがれ、多くの歌を詠んできた-

1300年前(神亀元年724)、大野東人(おおののあずまひと)により創建された多賀城。

どれだけ昔の話かというと、奈良に平城京が遷都されたのが710年ですから、同時代です。

都が奈良から京都(平安京)に移されたのが794年ですから、みちのく多賀城の歴史は古くから華々しく栄えていたことがわかります。

都を作る際には陰陽師が結界(レイライン)を張った

*上図は「星の街仙台Touristガイドブック2020/12発行」より

この頃は日本の中心に天皇がいて、陰陽寮という国家機関が政治や天文・占いなどを司り、陰陽師が活躍していました。(安倍晴明が有名ですね)

国内では近畿の巨大な五芒星が有名ですが、仙台城下の六芒星については過去記事でご覧ください。

そして多賀城にも当然ながらレイラインが存在します。

多賀城の鬼門に塩竃神社、裏鬼門に陸奥国分寺が置かれています。その先は奈良の平城京で、つまり奈良から見て多賀城は鬼門の方角にあります。

多賀城創建1300年にあたる令和6年(2024)の公開に向け、古代役所エリアと多賀城南門の復元工事を実施しています。

上図の3の場所が役所エリア

 

1の場所に南門が復元されます。政庁跡から見事に真南に位置します。

南門工事現場はガラス越しに見学することができます。

中央から左手に石の基礎と丸い柱が見えます。

 

南門の北側にあるのが、「多賀城碑(つぼの石ぶみ)」で、奈良時代に多賀城の修造を記念して制作された石碑です。

二代藩主伊達忠宗公の頃に土中から発見されました。

石碑の上部に「西」と彫られています。発見された時、どのような状態で土中に埋もれていたか想像するに、おそらく大地震で倒れたまま放置され、(コンパスなど無かった時代に)立て直した際、正確な真西の方角を指している、というのがすごい。

もしくは、西と彫られている以上、近代になって真西に向けてコンクリートで土台を固めお堂を建てたか、、、詳しいことはわかりませんが、いずれにしても先人が西を意識して制作した石碑ということは確かです。

西は、仏教で極楽浄土の世界とされます。

1300年前の人々がこの場所から見ていたのは、彼方に雪化粧する山々と、ピラミッド型の太白山。

それからここは花見の穴場でもあります。コロナ禍以前より人が少なく、最高のロケーションでした。

古代の建造物の復元工事により、駐車場や公衆トイレや公園が新たに整備され、今までの牧歌的風景が変わってしまうのは残念に思いますが、屈指の観光名所になる可能性を秘めているという点ではとても楽しみです。

参照:多賀城市の文化財

参考:星の街仙台

*レイラインに関する過去記事はライターネーム「ユーホー」にて。