これぞ仙台歴史ロマン★六芒星の神社は軍事要塞も兼ねていた!伊達の忍者部隊【宮城歴史浪漫シリーズvol.02】

歴史

こんにちわ、星の街の隠密ユーホーです。

前記事のつづきです。

六芒星の6地点は全て高台に位置しています。城下へと通じる街道の出入り口に当たっていて、怪しい人が入ってこないか監視することができたんですね。*高台からの軍事的監視を「見通し」という。

 

【榴岡天満宮】

この場所の歴史は古く、城下建設の際にはすでにポイントをおさえていたと考えられます。

今では高層ビル群に囲まれ城下を見下ろすことはできなくなりましたが、昔はかなりの高低差を感じることができました。

表参道の石段を登ってみると実感できますよね。ちなみに、榴ヶ岡の「ヶ」が入るのは地名で、榴岡天満宮の名称にはヶが入りません。

城下の六芒星は、藩主三代に渡って完成するのですが、榴岡天満宮は三代藩主綱宗公の時でした。

榴岡天満宮という名前になったのは昭和になってからで、それ以前は「天神社」でした。この天神社も元々は現仙台東照宮のある玉手埼にありました。

二代藩主忠宗公が玉手埼に東照宮を建てるため、天神社を一旦玉手崎東側に移し、そのあと榴ヶ岡に遷座(神仏のお引越し)されたのです。

この場所は、政宗公の時代よりもっと前に、源頼朝が奥州藤原氏を攻めたときに、藤原泰衡が防衛のための館(国分鞭楯-こくぶんむちたて)を築きました。

楯を築くほどですから見通しが良く、防衛施設を置くには最適でした。

陸奥国分寺の領地であったこの一帯は(国分荘-こくぶんしょう)と呼ばれ、領主は、佐藤小太郎基春→国分氏→伊達氏 という流れ。

 

【大崎八幡宮】

ここは、作並街道の出入りを監視する北西の守備の要でした。

南側の坂下には広瀬川が流れ、その昔船着き場があって、角五郎(つのごろう)さんという渡し守がいました。(角五郎丁という町名になった)

有事の際は、城の裏手に住んでいた黒はばき(伊達の忍者部隊)が、城下を通らずに速やかに大崎八幡宮に集合できたと想像します。

昔は、神社仏閣というのは軍事要塞の役割を担っていたそうです。墓石の大きさがそろえられたのも、楯として機能するようにとか、神社の境内がだだ広く、樹木を植えたりするのは、火攻めにあったときに城下への延焼を防ぐためとか。

大崎八幡宮は現在、鬱蒼とした木々に囲まれ、境内から城下を見ることはできません。

大崎八幡宮の南西(城の裏手)は、隠れ住むには都合の良い地理条件でした。その先の秋保(あきう)や定義(じょうげ)には、平家の落人伝説もあります。

隠れキリシタンがいたという愛子(あやし)地区には、「愛子百軒、ドス(らい病のこと)九十九軒、残る一軒ダンポさま(駐在所)」という言い伝えがあります。

つまりは、人を寄せ付けないための口実かと思われます。この地区は広瀬川の上流ですから、生活用水に使われた川のそばに、伝染病患者を隔離するなどありえない。

隠れキリシタンや忍者集団の存在を隠したのではないでしょうか。

実際にこの一帯には、先祖が隠れキリシタンだったというお宅が数軒ありますが、先祖が黒はばきだったというお宅も一軒あるようです。(記録には残せないため代々の口伝による)

イラストAC

現代で描かれる忍者は、スタイリッシュでかっこいいですよね。コスプレするなら忍者になりたい!

でも実際は「隠密-おんみつ」ですから、決して素性を知られてはならない、地味な生活をしていたはずです。普段は百姓や町人に混ざって普通の暮らしをしていたことでしょう。

スパイの役目もあったから、目立ってはいけない。忍者臭プンプンさせてるなんて、一発でクビですわ。

あの黒づくめの衣装も、夜用だねきっと。昼間から活動するとなると、お着替えも大変そうね…

それよりも、いつ何時呼び出されるか、きょう命を落とすやもしれぬ、、、戦国の世が終わったとはいえ、激しいプレッシャーと覚悟を持って、任務遂行していたでしょうね。

政宗公は隠密の精鋭部隊を作るために、山形の出羽三山にいる修験者をスカウトしていた、という話をそういえばどこかで聞いたことがあります。

山形は政宗公の母親の義姫さまの実家(最上家)ですから、ツテがあったのでしょうね。

山伏(修験者)は元祖アスリートですし、究極のサバイバル術を身に着けていたでしょう。

黒脛巾組-くろはばきぐみ

『伊達秘鑑』に拠れば、「政宗公兼て慮りあって。信夫郡鳥屋の城主安部対馬重定に命じて、鼠になれたる者50人をえらみ。扶持を与へ。これを黒脛巾組と号す。柳原戸兵衛・世瀬蔵人と云ふ者を首長とし、安部対馬之を差引」(政宗は鳥谷野城主・安部対馬守安定(重定は伊達秘鑑の誤記とされる)に命じて50名の忍者を選抜し、黒脛巾組と名づけた。柳原戸兵衛・世瀬蔵人を首長とし、その奉行として安部に彼らを預けた)とある。これは後述のように、人取橋の合戦における人名であるから、比較的前期の頃の体制であると思われる。~wikipediaより

 

6地点の中では、現代において城下の景色を堪能できるのは、仙台城址と愛宕神社になりますね。

愛宕神社から、冬至の夜明け。

 

仙台城址から、冬至の日の出前。

政宗様、あなたの作った仙台は、400年後にこんな美しい街になりました。

 

次回は【城の表鬼門は定禅寺、裏鬼門はだれにもわからない】へつづく

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出典:星の街仙台


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