これぞ仙台歴史ロマン★政宗の実弟小次郎君は生きていた!?【宮城歴史浪漫シリーズvol.25】

歴史

政宗公には、父輝宗と正室義姫(保春院)の末子で、実弟の小次郎がいました。

政宗は、母義姫が小次郎に家を継がせようとしたことに、母の実家最上家の陰謀を感じ取り、会津黒川(若松)城下において小次郎を斬殺した。

守役の小原縫殿介(おばらぬいのすけ)は小次郎の遺骸を埋葬するため、宮城県登米市津山町横山の長谷寺そばの小山の山頂に墓を建て、自らもその前で自害した。

通説ではこのように語られてきましたが、しばらく子供に恵まれなかった政宗にしてみれば、跡目が自分と弟の二人しかいない伊達家において、そう簡単に小次郎を殺すとは考えにくい。

伊達家の内紛で、弟擁立派を一掃するための芝居ではなかったか、という巷説は以前からありました。

伊達小次郎の墓。ダミー説。

あきる野市大悲願寺から小次郎生存説の古文書が見つかった

近年、東京都あきる野市にある大悲願寺から、【寺の13世住職・海誉上人(かいよしょうにん)の下に「秀雄-しゅうゆう」という弟子がいて(のちに15世住職となる)、この秀雄なる人物は『伊達輝宗公の二男』】と記された古文書が見つかりました。つまりは、政宗公の実弟だという記述なのです。

伊達家の記録には、秀雄という名前は見当たらず、政宗嫡系兄弟は「伊達小次郎」のみとされていることから、あの殺されたはずの小次郎君のことではないかと、歴史家の間では話題になったのです。

そうなると、星の街仙台としては妄想が暴走せずにはおれません。

死んだことにされ俗世から消された小次郎は、実は大悲願寺の坊さんとして生きていた。津山町横山の墓はダミーということになります。

この場所は、母義姫の化粧領地で、伊達の領内に配置された隠密「黒はばき組」のうち、本吉北方・気仙郡の組頭に「横山隼人」という人物がいました。

義姫とふたりの息子、限られた側近と黒はばきたちは、一芝居打って伊達家の内紛を収めたと考えるのが自然と思われます。

小原縫殿介の墓は、小次郎の墓から少し下ったところにありますが、こちらは本物でしょう。小次郎の墓の前で腹を切り自害したことで、小次郎が死んだことの真実味を証明したのではないでしょうか。

ここにも、政宗公への忠誠心を命に代えた殉死者が、ひとりひっそりと眠っています。

 

政宗公は川狩りと称して時々秀雄和尚に会いに、現・あきる野市の大悲願寺を訪れていたと思います。

白萩文書

大悲願寺に残る政宗公直筆の手紙。内容は「先日行った時に、寺の境内に咲き乱れる白萩があまりにも美しかったので、株を分けてはくれまいか。仙台へ届けてくれ」というもの。日付は1623年8月21日

参考:郷土の古文書 伊達政宗の白萩所望状

萩寺として有名な大悲願寺には、時々遊びに行ったのだから、その場で直接もらえばいいものを、わざわざ手紙にしたため、人足を使ってまで運ばせるとは…

この手紙の日付に注目すると、政宗と小次郎(秀雄)の母義姫が亡くなった日が、1623年8月13日だから、その死を弟に知らせる手段とも受け取れるが、または本当の目的は、ある人物を仙台へ届けるためではなかったか。

「白萩」とは、政宗の長女五郎八姫(いろはひめ)の隠し子「黄河幽清」のことではないか。

参照:星の街仙台

次回は【五郎八姫には政宗と家康の血統男子・隠し子がいた!?】へつづく