相馬にお返ししたほうがいいと思うのですが~太白区越路の妙見菩薩~【宮城歴史浪漫シリーズvol.45】

おでかけ

歴史の闇に葬られた仙台の史実を掘り起こす、ユーホーです。

愛宕山の麓にひっそりと佇む小さな妙見堂を知る人は少ないでしょう。

妙見堂が置かれる以前この場所には、政宗公が仙台開府の際に米沢から移転した覚範寺(父・輝宗公の菩提寺)がありました。

まもなく「小人事件」により覚範寺は焼失し、北山に再建され北山五山のひとつとなりました。

小人事件とは 『政宗が綱元に命じた”小人一掃計画”か⁈』

末端の階級の者(罪人等)を「こびと」と言い、仙台城建設に携わらせていた。ある日、作業をしていた小人と監視する役人がケンカになった。まわりの小人たち全員が加わり、騒ぎが大きくなった。小人たちの騒動を鎮めるために「切り殺せ」と命令したのが茂庭綱元。小人たちは愛宕神社の崖下にあった覚範寺に逃げ込んだが、綱元や他の侍たちに取り囲まれてしまう。窮地に追い込まれた小人たちは寺に火をつけ、全員死んだ。~参照:星の街仙台

その跡地に、愛宕神社の別当として誓願寺が建立されました。明治になって廃寺になると、そこに妙見菩薩を祀り、越路家が管理することになります。

つまりこの場所は、覚範寺→誓願寺→妙見堂という流れです。

周りは住宅地となり、その一角だけがぽつんと取り残されたような聖地。

ご本尊の妙見大菩薩には、知る人ぞ知る海よりも深い事情があった

妙見(みょうけん)とは

北極星または北斗七星を神格化した仏教の天部のひとつ。妙見信仰は、インドに発祥した菩薩信仰が、中国で道教の北極星・北斗七星信仰と習合し、日本に伝来したもの。-wikipediaより

言い伝えによると、伊達家先代の姫君が閖上浜で水遊びをしていたときに、漁網にかかった菩薩像を拾い上げ、愛宕大権現社に奉納した。政宗公はその妙見大菩薩を祀り諸願成就を祈願した。

明治になって神仏分離令により尊像が仏体であったため、現在地に移された。(最初は愛宕山に祀ったということですね)

愛宕権現(あたごごんげん)とは

愛宕山の山岳信仰と修験道が融合した神仏習合の神号であり、イザナミを垂迹神として地蔵菩薩を本地仏とする。神仏分離・廃仏毀釈が行われる以前は、愛宕山白雲寺から勧請されて全国の愛宕社で祀られた。~wikipediaより

本尊は木彫りで、「そのお姿は端厳、誠に稀代の作であり、その刀法様式により名手が丹精込め信仰を凝らして彫成したことが窺える」とあります。

稀に見るすばらしい出来の像でありますが、首から下の部分には貝殻が付着しているようです。

誓願寺の言い伝えによると、福島の相馬氏が崇信していたものであったといいます。

相馬中村神社、太田神社、小高神社の三社は相馬三妙見と呼ばれ、相馬野馬追はこの三社の祭礼です。

相馬氏と伊達氏は、政宗公の祖父・晴宗の時代から争いが絶えず、政宗の時代になると相馬氏を討つ際、妙見大菩薩が現れ相馬軍を援護したため、伊達軍は大菩薩を相馬から移した方がよいと考え、片倉小十郎が【密かに尊像をいただいてきて】閖上の海中に沈めた、とあります。

そのとき、(良心の呵責か)せめてお顔の部分だけでも布に巻いたため、首から上はきれいであったと。

相馬妙見は、相馬氏が代々信仰した『氏神』であり、 歴代の居城に妙見社を祀り藩主や家臣たち一族の繁栄・領内の安寧を祈った、大事な大事な菩薩像だったのです。

それを、伊達軍はこっそり【いただいて(?)】きて、自分たちの領土の海中に沈めてしまった。

それを知った相馬氏の怒りはいかばかりか!

はたまた、現時点でこのことを、相馬側はご存じであろうか。

相馬対伊達の長年に渡る因縁の対決の背景には、この妙見大菩薩こっそりいただき海中沈め事件も関与していると思わざるを得ません。

中村藩(藩主相馬氏)の藩庁だった相馬中村城

相馬市の中心に位置し、戦国時代~江戸時代にかけての大名・相馬氏の居城のひとつで、別名馬陵城(ばりょうじょう)。

妙見中村神社は城の敷地内に鎮座し、崇敬とくに厚く、信仰は相馬一帯に広がっていたとされる。

敵の氏神を奪って海に沈め、それをお姫様が見つけて愛宕山に奉納した、というおとぎ話のような展開ですが、誓願寺の言い伝え通りであるなら、400年の時を超えて、妙見菩薩を相馬にお返しするべきではないか…と自分はそう思います。

ちなみに、青葉山-愛宕山-妙見堂-閖上をつなぐラインは、冬至の日の出の”レイライン”です。

政宗公にしてみれば、敵方なれど相馬氏の氏神様に対して畏敬の念で崇め奉ったことは事実で、その後引き継がれた越路家の丁重さも見て取れます。

ここでふと思い出すのが、片倉小十郎の兜の前立てです。八日月に愛宕山大権現守護所の御札を組み合わせたデザインじゃないですか。

ひょっとして、妙見大菩薩こっそりいただき海中沈め事件と関係があるのではないかと、思わざるを得ません。

仙台藩片倉氏初代 片倉景綱(通称小十郎)

父は、片倉影重。山形県米沢の八幡神社の神職。

母は、本沢真直の娘・直子。茂庭良直の妻だったが女子(のちに政宗の乳母となる喜多)を産んだ後、男子に恵まれず、良直の側室が男子(茂庭綱元)を産み、嫡男が出来たことから側室を正室に。直子は離縁させられ喜多を連れて片倉家に再嫁して、そこで産まれたのが小十郎景綱。

つまり、小十郎にとって喜多は異父姉で、綱元は義理の兄にあたる。

大坂夏の陣で、真田幸村は自分の子供たちを(敵方でありながら)片倉家へ預け、真田の血脈は仙台真田家へ継がれた。

現在の青葉神社の宮司は、白石片倉家第16代当主の片倉重信氏。

*当記事の詳しい内容は、1/22(金)のタピ大(fmいずみ主催)歴史講座でお話します。受講無料

越路妙見堂 仙台市太白区越路11

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