仙台の坂本龍馬!?幕末に世界一周/洋上でビールを初めて飲んだ日本人『玉蟲左太夫(たまむしさだゆう)』【宮城歴史浪漫シリーズvol.62】

歴史

仙台藩に、こんなすごい人がいたのね!

久々に心躍る歴史上の人物発見で、紹介せずにはいられないユーホーです。

”歴史は勝者が作る”という言葉がありますが、敗者が残した記録を子孫が綿々と受け継ぎ、郷土歴史家が深堀していくことで、歴史の真実は見えてくるのではないでしょうか。

幕末の仙台藩士「玉蟲左太夫(たまむしさだゆう)」の偉業も、そうして語り継がれてきました。

仙台藩士 幕末世界一周  玉蟲左太夫外遊録

<訳/山本三郎 発行/有限会社荒蝦夷>

画像は本書より抜粋~加筆あり

約10か月間にわたる世界一周の記録「航米日録」全八巻のうち、第七巻までが公式記録として献上されたが、自ら非公開文書とした最終巻は、仙台市博物館所蔵。

本書の中に、八巻の記述も盛り込まれています。左太夫の”本音”が描かれていて、その人となりが見えて面白い。

下河原幸恵氏のクスっと笑えるイラストもふんだんに使われており、見応え読み応え十分の一冊です。

明治維新とは

江戸時代末期(幕末)から明治時代初期の日本において行われた幕藩体制を打倒して天皇を頂点とした中央集権統一国家を形成し、封建社会から資本主義社会へ移行した近代化改革のことを指す。その範囲は、政治や中央官制・法制・宮廷・身分制・地方行政・金融・流通・産業・経済・文化・教育・外交・宗教・思想政策の改革・近代化などを含んだ。Wikipediaより

この時代に活躍した人物といえば、

吉田松陰 坂本龍馬 中岡慎太郎 高杉晋作 板垣退助 ジョン万次郎 勝海舟 福沢諭吉 小栗上野介……

そうそうたる顔ぶれの中に、仙台藩士「玉蟲左太夫」が居たー!

幕府の重臣小栗上野介(勘定奉行、江戸町奉行、外国奉行を歴任)は、江戸城が無血開城する際に、幕府の御用金を赤城山に隠したのではないか、といまだに歴史ミステリーとして語り継がれています。

その小栗と共に、日米修好通商条約で渡米し、その後世界一周して帰国、最新鋭の情報を日本にもたらしたのが、仙台藩の玉蟲でした。

類まれなる好奇心と観察力、そして筆まめさを幕府から買われた玉蟲は、旅の記録「航米日録」を世に残しました。

また、東北諸藩が一致団結して新政府軍と戦った「奥羽越列藩同盟」を主導したひとりでもありました。

奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)とは

戊辰戦争中の1868年(慶応4年/明治元年)5月6日に成立した同盟で、陸奥国(奥州)・出羽国(羽州)および越後国(越州)の諸藩が、輪王寺宮公現入道親王を盟主とした、反維新政府的攻守同盟、または地方政権

奥羽諸藩は新政府が仙台藩に派遣した奥羽鎮撫総督に従っていたが、奥羽諸藩は会津藩・庄内藩の「朝敵」赦免嘆願を行い、その目的を達成するための同志的結合が形成されていた。しかし、この赦免嘆願が拒絶された後は、列藩同盟は新政府軍に対抗する諸藩の軍事同盟へと変貌した。一説には公現入道親王を天皇として擁立した東北朝廷であったともされるが[2]、同盟自体がそのような表現を公式に行ったことはなく、「幼君(明治天皇)の君側の奸である薩賊(薩摩藩)を除く」ことが目的であると主張している

成立間もない5月中に新政府軍は東北への侵攻を開始、同盟諸藩は新政府軍との戦闘を行ったが、勝利をおさめることはできずに個々に降伏(戊辰戦争)。9月には中心的存在の仙台、会津が降伏し、同盟は消滅した

すごく簡単にいうと、総督府は東北諸藩に会津征伐を命じたが、仙台・米沢を中心とする諸藩が、戦争を回避して会津救済の嘆願書を提出した。

穏便に済まそうと努力したが却下されたため、当初官軍側だった仙台藩も新政府軍との対決の姿勢を強めることとなった。

東北25藩が仙台に会合し、仙台藩を盟主として同盟が締結され戦ったが、敗北します。

新政府軍にとっては脅威の存在だった幕府の小栗上野介は、罪無くして斬首され(享年42歳)、

この戦後処理で玉蟲も同士と共に切腹させられます。明治二年四月九日 享年47歳。

*驚くことに、玉蟲らを葬ったのは敵明治政府ではなく、仙台藩内の勤皇派によるものだったと、上記本書に書かれています。福沢諭吉は「福翁自伝」の中で、仙台藩士の無情残酷を非難しています。

旗は五芒星がデザインされていますが、その理由は記録が存在しません。

星の街仙台的に推理しますと、

仙台城下は六芒星の結界で守られています。

陰陽道では陽の星を五芒星、陰の星を六芒星で表し、どちらも様々な霊的攻撃から守るために使われてきました。

陰陽がそろうと最強とされ、同盟の中心となった仙台藩が旗を五芒星に決めたのではないか…な?

玉蟲家の墓は少林山保春院(伊達政宗公の母義姫の菩提寺)にあり

若林区役所そば、保春院は義姫の出家後の院号。

墓所の案内板はありません。墓地の奥の方の東寄りに見つけました。玉虫排斎(せっさい)之墓とあります。

墓石は西を背にしています。側面に左太夫の命日が刻まれています。

友人横尾某の手により建立。

保春院HP 【住所】〒984-0811 仙台市若林区保春院前丁50

サムライ、ビールを飲む!

渡米途中の過酷な船上生活の中で、「苦みなれども口を湿するに足る」と評価しているのが、アメリカ人の乗組員が持ち込んだビールを飲んだ感想。

ご子孫によると、左太夫は飲兵衛だったらしい。

この記録によって、「初めてビールを飲んだ日本人」としてビール会社のPR本に登場しています。

ビールを愛した近代日本の人々・玉虫左太夫|歴史人物伝|キリン歴史ミュージアム (kirinholdings.com)

 

小栗上野介らの『東日本政府樹立の構想』が、もしも実行されていたら、玉蟲左太夫は間違いなく英雄視されていたはずの大物です。

星の街仙台的妄想では、幕府の消えた埋蔵金は、仙台へ運ばれようとしたのではないか、と推理します。

【幕府の財宝を積んで沈没した「早丸」は、仙台藩所有の軍艦だった】へつづく