これぞ仙台歴史ロマン★支倉常長の墓は県内に4か所ある!?【宮城歴史浪漫シリーズvol.16】

歴史

【北山の光明寺】

仙台では、京都五山や鎌倉五山に倣って、5つの仏閣を建て城下の北の守りとしました。

光明寺、満勝寺、東昌寺、覚範寺、資福寺。これを「北山五山」という。

光明寺は伊達氏始祖である朝宗夫人(光明寺殿)の菩提寺で、弘安6年(1283)伊達氏四世政依が福島の伊達郡光明寺村(現国見町)に創建したのが始まりで、その後伊達家の領地変遷により各地を経て、慶長9年(1604)にここ北山に移りました。

正史では、帰国2年後に52歳で病死したことになっている常長さんですが、幕府への報告もあって(ダミーの)墓はちゃんと作らねばならなかったでしょう。

それが光明寺なのではないかと、個人的には思っています。

光明寺では、帰国後翌年病死、つまり元和7年(1621)享年51歳となってますが、案内板には死亡時期について書いていないようです。

常長さんと一緒に派遣された宣教師ルイス・ソテロの慰霊碑もそばにあります。

ソテロさんは、滞在していたマニラから日本へ密入国したのが1624年で、常長さんたちよりも4年後です。運悪く見つかり、政宗公の嘆願叶わず、幕府の命により火刑で殉教しました。

政宗公にとっては、常長さん同様に絶対死なせたくなかった人物でしたでしょうが、禁教令が激化し問答無用だったようです。

本当のお墓は不明、というより当時の事情からいくと無いものと思われます。

 

【川崎町の円福寺】

常長さんは伊達氏の家臣山口常成の子として山形県米沢に生まれましたが、叔父の支倉家に男子がいなかったために養子に出されました。それが川崎町の支倉地区です。

7歳から青年期までいましたが、支倉家に嫡男が生まれたことから、政宗公の命で常長さんは600石を賜り独立します。

その後は実父の領地だった現富谷と大郷の中間あたりに住み結婚もしたという記録があります(前記事参照)。

円福寺では、元和8年(1622)7月1日 享年52歳とあります。

ここは小高い丘全体が墓地になっており、常長さんのお墓は支倉地区を見下ろすように頂上にあります。

川崎町でも支倉常長ゆかりの地として、毎年行われるお祭や、ゆるキャラ等が活躍しています。

参考:みやぎ川崎支倉常長まつり

 

【大郷町のメモリアルパーク】

そしてこちらが84歳の生存説がある大郷町です(前記事参照)。承応3年(1654)2月 享年84歳。

東光寺の故佐藤宗岳師による研究成果が日の目を見る時が来て、メモリアルパークとして公開されるに至ったのです。

大郷町で毎年行われる「川内ホタルのページェント」では、支倉常長を偲んで結成された「郷さんさ保存会」の方々が、幻想的な舞を披露します。

喪服と笠で顔を隠した女性たちとホタルのコラボは、里山の厳かな夏の夜を体感できます。

参考:大郷町ウェブサイト

 

ここまでが、一般的に知られている3か所のお墓ですが、さらに大和町西風(ならい)というところにある五輪搭が、六右衛門の墓だとする伝承があります。

名乗りを上げたのは、個人宅の敷地内であるため、見学は不可。また六右衛門の苗字が支倉かどうかも不明だそう。

実は、もう一か所見つけてしまいました…

いずれにせよ、常長さんはキリシタンとして亡くなったと思われますので、やはり親戚縁者の手により人目に付かぬ静かな場所に埋葬されたのではないでしょうか。

(大郷町の墓は、確か昭和の頃に一度発掘されているんですよね。その話はいずれまたいつか…)

 

次回は【仙台城下の霊山”太白山”に登ってみたら驚いた!】へつづく

これぞ仙台歴史ロマン★慶長遣欧使節 支倉常長は生きていた!?その2【宮城歴史浪漫シリーズvol.15】

2020年3月31日

参考:星の街仙台