記録には残せなかった歴史の真実を探求するユーホーです。
前記事より続きますので、まずはこちらをご覧いただきたい。
玉蟲は桜田門外の変を知っていた(?)
1860年、幕府の重臣小栗上野介ら遣米使節団は、日米修好通商条約のためポーハタン号でアメリカへ向け出航した。
使節団の中に、記録係として乗り込んだ仙台藩の玉蟲左太夫が居た。
小栗は使節団のトップスリーで、玉蟲は下級武士だった。
が、小栗を中心とする「勉強会」のメンバーに、幹部武士に混ざって下級従者からただひとり、玉蟲が加わっていたとの記述がある。
また、幕府の極秘情報を知っていた可能性があることから、小栗とはとくに近い関係にあったものと推察できる。~仙台藩士 幕末世界一周 204ページより
小栗と玉蟲は、約10か月間の世界一周の旅を共にして帰国。
航海の途中で、日本では井伊直弼の暗殺事件「桜田門外の変」が起こった。
桜田門外の変(さくらだもんがいのへん)は、安政7年3月3日(1860年3月24日)に江戸城桜田門外(現在の東京都千代田区霞が関)で水戸藩からの脱藩者17名と薩摩藩士1名が彦根藩の行列を襲撃、大老井伊直弼を暗殺した事件。「桜田事変」とも言う。~Wikipediaより
井伊は、日米修好通商条約の締結を朝廷の許可なく決行した張本人、つまりは小栗たちの大ボスである。
日本では大事件として扱われたが、アメリカでは当初小さな記事でしかなく、航海中の関係者の中でこの事件を知っていたのは、小栗だけだったとされる。
が、記録係の玉蟲はこの日、それらしき出来事を記録していたのだ。
下級武士である玉蟲が、幕府のトップシークレットを知らされていた可能性から、小栗との密な関係性が見て取れるということである。
新政府軍にとって脅威の存在 小栗上野介(忠順ただまさ)
幕末の天才と言われ、明治政府が一番恐れた男。
三河小栗氏第12代当主(祖父も勘定奉行)
勘定奉行、江戸町奉行、外国奉行を歴任。
日米修好通商条約承認のため米鑑ポーハタン号で渡米し、世界一周して帰国した。
江戸幕府の財政再建や洋式軍隊の整備、横須賀製鉄所の建設を行った。Wikipediaより
*上記は小栗について検索した資料の中から抜粋させていただきました。
都市伝説「徳川埋蔵金」
今年の春~夏頃でしたでしょうか、TBSテレビ番組再放送で取り上げられた内容がこちら↓
番組中で、江戸の仙台屋敷そばから堅牢な石垣(船着き場跡)が発見され、太平洋へつづく完璧な運搬ルートが在ったのではないかという推察がされていた。
小栗と玉蟲の帰国6年後~大政奉還
徳川家康から始まり、およそ265年続いた幕府は、朝廷へ政権返上した。
*文章画像共にWikipediaより 年表は自作
大政奉還からわずか2か月後に、仙台藩は早丸(ハヤマールコール号)を購入している。
この時すでに仙台は酷い財政難に苦しんでいたはずにもかかわらず。
その五か月後に奥羽越列藩同盟が結ばれ、二日後には、早丸が巨額の幕府御用金を積んで出航、沈没している。
過去に何度かトレジャーハンター等による引き揚げを試みたらしいが「財宝」の類は発見されていない。
そして戊辰(会津)戦争勃発へ~つづく
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