戦国時代の合戦の作戦に、火攻め、水攻め、投石攻めなどありますが、一番確実でダメージが大きいのは「兵糧攻め」でしょう。
兵糧(ひょうろう)とは、戦争時の兵隊の食料のことです。食(じき)攻めともいいます。
食糧補給の道を断って敵の戦闘力を弱らせる攻め方ですが、これを得意としていたのは豊臣秀吉と言われています。
日本史上に残るのは、”鳥取の飢え殺し”といわれる「第二次鳥取城攻め」でしょう。
兵隊も農民も城に籠城させ、備蓄がなくなるまで包囲し身体的精神的に追い詰めて降参させる。
しかし、秀吉は勝ち取って開城したときに、兵隊たちに食事を振る舞ったはいいものの、極限の飢餓状態からいきなりの過度の栄養摂取により、生存者の過半数がショック死したという、地獄絵図でした。
これほど残酷な作戦は無かったでしょうが、しかしどうやら政宗公は、力攻めではなく、戦わずして勝利を得ることに長けていた秀吉を尊敬していたようです。
それは小田原城を攻めたとき目のあたりにした、驚くべき光景のせいもありました。
戦仕立ての武士たちは、そこにおよそ10万人いたといわれています。
秀吉はこれらの人々に、戦どころか豪華な食事を提供し、夜な夜などんちゃん騒ぎをさせていました。
それはまるでどこかの大きな町がそのまま移動してきたような光景でした。
あまりの人数の多さに北条氏はビビリまくって、小田原城から攻撃することをためらいました。
おまけに、小田原城を見下ろす山に短期間のうちに巨大なお城が出現し、北条氏パニクった。
とてもじゃないけどこれでは、絶対勝ち目は無いとあきらめて、完全に戦力を失い降参したのでした。
人を殺さず兵士を遊ばせながら敵を降伏させてしまうとは。。。豊臣秀吉の偉大な力に政宗公は感心したのです。
山に築いたお城は実は、枠のみに白布を貼っただけのものでした。遠くから見れば立派な城壁に見えるのですが、それは本物に見せかけた映画のセットのようだったのです。
兵士を遊ばせているように見せかけて、実は陰では[仮の城]を建てる仕事をさせていたのです。
日本初の味噌工場
美食家としても有名だった政宗公は、城内の一角に大規模な味噌工場を建てました。
これが日本初登場の「御塩噌蔵-おえんそぐら」です。
今では全国的に有名になった「仙台味噌」ですが、ルーツは政宗公にたどり着きます。
仙台藩の味噌は、豊臣秀吉による二度に渡る朝鮮出兵のときに大活躍しました。
陣中での味噌は、干したり焼いたりして携帯するための苦労があったようですが、各藩が持ち寄った地元の味噌は長期間の滞陣で変質してしまったのに対し、政宗の味噌は持ちが良くそのうえ美味だったことから、兵糧としての完全品質を他藩からも認められました。
米と塩に恵まれた仙台の味噌は贅沢な作りで美味しく、「仙台藩の味噌はうまいし長持ちするぞ!」ということで、そのウワサはたちまち江戸庶民にも広まり、江戸藩邸内にも味噌蔵が作られブームになりました。
政宗公はさらに城下で「味噌仲間」を結成させ、四季を通じて良質な仙台味噌を造らせました。
仙台藩の江戸藩邸に常勤する士卒3000人分の食料は、仙台から運ばれましたが、味噌だけは藩邸内に作られた味噌蔵で、仙台より派遣された職人たちが作っていました。
政宗公は’実業家’としても大活躍していたわけです。
米と塩は、県北の登米や雄勝で作られ、水路を使って城下まで運ばれました。
このとき、場内へはフリーパスだったようです。絵図を見ると、広瀬川から降ろして蔵へ直行ですね。(県北には政宗所有の金山も多数ありました♪)
参照:ヤマカノ醸造株式会社(登米市)
当サイトの内容、テキスト、画像などの無断転載・無断使用を固く禁じます。許可なく使用が判明した場合には即時中止(削除)、使用料の支払、謝罪文掲載を請求いたします。