戦国武将総選挙で第3位。不動の人気を誇る伊達政宗。
仙台藩は他藩に比べて、主君が亡くなった時に後追いする家臣の数が、圧倒的に多かったようです。
それだけ忠誠心が厚いということになりますが、政宗公の時はもとより、二代藩主忠宗公の時も、重臣が次々殉死するものだから、政治に支障をきたしてしまうわけですね。
そこで、ある時から「殉死禁止令」というものが出来たようです。それでも守らない殉死者があとを絶たず、仙台藩は、全国的に見ても特異だったようです。
伊達家歴代、政宗の父親のときまでは少なかったそうですが、政宗の時から急増します。他の大名では2~3名でしたが、政宗は20名、二代忠宗で16名、他大勢の殉死者を出しています。
異例の出世をした古内主膳重広公
政宗公と正室の愛姫の間にはふたりの子供がいました。長女は五郎八姫(いろはひめ)、そして弟の忠宗公です。
忠宗公が二代藩主となるとき、側近として抜擢されたのが古内主膳重広(ふるうちしゅぜんしげひろ)という人でした。
重広は、国分盛重(政宗以前の支配者)の末子でしたが、幼少時に古内実綱の養子家督となりました。
古内家の館跡は現泉区の根白石にあり、この地区は昔、馬の産地として放牧場、馬場がありました。
重広は容姿端麗のうえ馬術に優れ、すぐに政宗公の目に留まり、嫡男の乗馬の指南として召し抱えられたのでした。
重広が二代忠宗公の側近となってからは城へ行く機会が増え、重広が城に来ることを知った女中たちは色めきだったそうです。
長身でイケメン、しかも乗馬がうまいとくれば、白馬に乗った王子様的な存在だったに違いない。
ある戦いで、他藩と共に戦場へ向かう時、大河を渡る場面に出くわした。他藩では川の流れにおののき躊躇しているところへ、仙台藩がやってきた。
重広率いる騎馬隊は、重広を先頭になんなくスイスイと川を渡り対岸へたどりついた。
それを見ていた他藩の騎馬隊は「流石!伊達者じゃ!」と感心して後をついて渡った。という逸話が残されています。
きっと、男から見ても惚れ惚れするほどの人物だったのではないかと妄想せずにはいられません。
政宗公は出陣時も、いちいち派手でお洒落な行列を見せていましたから「伊達が来たぞ!超カッケー!!」と人々の目をくぎ付けにしていたんですね。
そんなとき、重広公が颯爽と馬で闊歩したならば「チョーヤバイ♪♪」
政宗公の美意識からして、これも戦略だったかもしれません。残念ながら重広公の肖像画は残されていませんが。
岩沼藩という独立した支藩があった
重広公は、のちに岩沼の地を拝領し岩沼城-要害(現岩沼駅の所)の城主となります。古内家は中堅の家格でしたので、当時では破格であったと思います。
竹駒神社は、その昔馬市が行われていましたから、重広公の起こした産業であったと推測します。
また、二代忠宗公の筆頭家老として、仙台北部の新田開発事業にも功績を残しています。
岩沼を取材した折に、地元の方々が「古内様」と呼んでいたのが印象的でした。
今も地元ではお殿様と言えば古内氏。岩沼古内氏の始祖が重広公です。
ほとんど知られていないかもしれませんが、仙台藩の支藩として岩沼藩があったそうです。
岩沼藩を開いたのは田村氏。岩沼史には、古内氏と田村氏が何度か領主として入れ替わっている複雑な背景があるようです。
参照:岩沼藩三万石物語
忠宗公の最大の信頼を受け、終始仕えましたが、1657年重広公は隠居します。
その翌年7月12日に忠宗公の病死の報に殉じ、追い腹を切り69年の生涯を閉じました。
その直前重広公は、伊達騒動を予見していたといわれています。
古内家の菩提寺は根白石の大満寺です。
重広公は愛妻家であったとのことで、その墓石には奥方である寶樹院の名も刻まれています。夫婦での単体同一の墓石は非常に珍しい。(下図右側)
参照:虚空蔵山 大満寺
出典:星の街仙台
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