これぞ仙台歴史ロマン★たぶん伊達家臣の中で一番のご長寿!茂庭綱元公【宮城歴史浪漫シリーズvol.21】

歴史

政宗の功臣の中でもとくに功績を残した【伊達の三傑】と呼ばれる、片倉小十郎景綱・伊達成実・茂庭綱元。

3人のうち一番年上の茂庭綱元は、あまり歴史上に登場しませんが、政宗公の右腕として地味~に大活躍した人物です。

政宗公は、仙台城築城後も、ほとんどは江戸の仙台屋敷にいることが多く、城の留守を守っていたのは綱元さんでした。

仙台城下建設のグランドデザインを指揮したのも綱元さんではないかと(星の街仙台的には)推測しています。

茂庭家は代々伊達家に仕える世臣で、弁舌、交渉に長け軍略にも優れた軍師の家系でした。

父良直は武田信玄のもとへ武者修行にも行っています。

父良直と先妻の間には、娘がいたがなかなか男子が生まれなかった。

そこで側室を持たされ白鳥明神に願をかけて、酉年の酉の刻に生まれたのが綱元。

そのため白鳥明神の化身といわれ、戦での雄姿には頭上に白鳥が舞っていたと伝えられています。

綱元が生まれると先妻は離縁され、娘を連れて米沢八幡宮の片倉家に再嫁した。そこで生まれたのが小十郎景綱。

ですから景綱と綱元は、実際の血のつながりは無いものの兄弟のような関係で、政宗公を支える重臣となります。

そして景綱の異父姉が、政宗公の乳母になる”喜多”さんです。

綱元は豊臣秀吉に気に入られていた

茂庭家は元々「鬼庭」という苗字でしたが、あるとき秀吉公のもとへ出向いた際「ところで”鬼”ってつく名前はこわいからさ、茂庭にしたらどぉ?」と言われ、改名しました。

またある時、囲碁の相手に呼ばれ「もし茂庭くんが勝ったら、わしの側室の中から好きな子あげるよ♪」と言われ、本気になった綱元が勝ち、香の前(名は種)という女性をもらって帰りました。

ところが、政宗公から「あのさ、ちょっとその子をわしにくれないか」と言われ、親方様の頼みとはいえそれだけは了承できず、機嫌を損ねた政宗公のもとから、香の前を連れて家出します。

ふたりは香の前の実家がある京都へ向かうのですが、その後なんだかんだで、結局香の前は政宗公に差し出されました。

そこで男女二人の子をもうけます。しかし、そのあと政宗は「やっぱり返すね♪」と言って綱元に下げ渡し、子供たちは綱元の子として、茂庭家で育てられました。(*諸説ありますが、大体の流れです)

政宗は秀吉のことを好きで尊敬していましたから、秀吉に気に入られた綱元に嫉妬していたのかもしれません。

これを現代に置き換えたならば、パワハラセクハラマタハラどんだけー!!とんでもない話ですよね。

女性は物扱いの、子を産む道具にすぎない時代なのです。

綱元さんと政宗公の間には、様々な逸話が残されていますが、なんだかんだあっても、主君への忠誠心は最期まで厚く、右腕として伊達家の内政を支えました。

政宗公が亡くなると綱元さんは隠居して県北の栗駒文字村に「洞泉院」という寺を建て、親方様の冥福を祈り続け、政宗公と同月日(5/24)の命日にこの世を去りました。享年92歳。

茂庭家は代々熱心な仏教徒で、仙台藩のキリシタン弾圧では指揮をとっている。しかしこの文字村は隠れキリシタンの言い伝えがあり、綱元の奥方の位牌には丸に十文字の紋が見て取れる。

また洞泉院には、キリシタンを思わせる人形が祀られている。(詳しくは、2016発行「星の街仙台~THE MASAMUNE CODE」の24ページをご覧いただきたい)

お墓は栗駒町 だが、松山町の石雲寺(せきうんじ)には茂庭家霊屋があり、年に2回(1月と8月)ご開帳される。

茂庭家の長寿にあやかった【茂寿茶】お茶の井ヶ田

当時の90歳超えは、もはや「仙人」でしたでしょう。茂庭家は、長寿で有名な家系でした。

ある時秀吉は、その長寿の秘訣を探ろうとして綱元に日頃の暮らしぶりを聞きました。

この時、綱元は「代々、日頃から米粉を湯に溶いたものを服用している」と答え、秀吉もこれを「石見湯-いわみゆ」と名づけて服用するようになったという逸話があります。

大正9年創業、仙台生まれの伊達なお茶屋「お茶の井ヶ田」さんが、茂庭家第28代当主公認で「茂寿茶」という高級煎茶を販売していますよ。渋いですね~

戦国ブームで、派手な脚色をされた武将たちの陰に隠れてしまった感の重鎮が、400年の時を超えて世に出てくるというのは、誠に歓ばしいことで御座います。

参照:お茶の井ヶ田

出典:星の街仙台 


当サイトの内容、テキスト、画像などの無断転載・無断使用を固く禁じます。許可なく使用が判明した場合には即時中止(削除)、使用料の支払、謝罪文掲載を請求いたします。