前記事(vol.26)の続きです。
あきる野市の大悲願寺から幽清が仙台へ連れてこられたとして、どこへ匿われたか。
伊達家の隠れ里根白石としか考えられません。古内主膳重広の別荘”福沢御殿”で養育されたのではないか。坊さんとしての修行は満興寺か。
政宗と愛姫にはしばらく子供が授かりませんでした。秀吉の仕置にあい、政宗は米沢から岩出山へ、愛姫は京都の聚楽第に人質としてとられていました。
待望の第一子・五郎八姫(いろはひめ)は京都で生まれ、家康の時代になると、母愛姫共々江戸に移されました。
愛姫は細川ガラシャと交流があったことからキリシタンだったという説があり、五郎八姫も洗礼を受けたと思われます。
家康の六男忠輝と離縁後仙台へ移り住んだわけですが、息子の幽清が根白石にいたとしたら、当然通うでしょう。
五郎八姫と二代忠宗(弟)は仲が良かったとされ、ふたりはちょくちょく根白石の福沢御殿に泊りがけで行っていた、という文献が、ここで繋がってきます。
西舘跡
愛子バイパス(R48)を西へ、陸前落合駅へ右折するところに「コナカ」がありますが、その斜め向かいあたりに「西舘跡」があります。ここは元々茂庭綱元の屋敷でしたが、政宗公が亡くなって綱元は隠居するため栗駒の文字村へ移り住むことになり、「ならばその屋敷を私にくださいな」と姫が所望したのです。姫は晩年、城の西舘からこの屋敷(西舘)に移り住みました。
隠れキリシタン伝説
愛子・栗生地区には隠れキリシタンの言い伝えがあり、姫から拝領したという着物を代々家宝にしているお宅もあります。
西舘の真北に、閑静な住宅街の中にポツンと鬼子母神堂があります。いろは姫が建てたお堂ですが、中には右手にざくろ、左手に赤ちゃんを持った20cmほどの鬼子母神の木像が祀られています。
この地区では8/15(マリア様が昇天した日)に、「盗人神(ぬすっとがみ)」また「唖神(おっつがみ)-おし」という奇祭が行われています。
”限られた家”の主が袴姿で、藁で作った12膳の箸と食事を盛ったお膳を持って、このお堂を参詣するというもので、祭りの間中、絶対に口をきいてはならぬ、途中人に見つかってはならぬ、音をたててはならぬという、まるで自分たちの存在をかき消すかのような信仰なのです。
鬼子母神堂の近くに薬師堂がありますが、この中には「ろうそく食い」と呼ばれる木像が祭られています。
顎部分に十字のマークが刻まれており、それを隠すためにろうをたらして見えなくしたとされます。
他にもこの一帯には、マリア観音が祀られた寺もあり、キリシタンの痕跡が多く見られます。
なによりも、明治になって禁教令が解け、日本最初のキリスト教団が認可されたときの大司教(土井辰夫氏)が仙台愛子出身者であることが、物語っています。
また愛子には「愛子百軒、ドス(らい病)九十九軒、残る1軒ダンポ様(駐在所)」という古い諺がありました。
当時の城下の生活用水は広瀬川の水だったので、広瀬川の上流に接するこの場所に伝染病患者を集めて住まわせるとは考えにくい。
この一帯に、キリシタンや黒はばきが住んでいたとすれば、人を寄せ付けないための口実であったと考えます。
五郎八姫が離縁後、まわりから何度も再婚を勧められるも、頑なに独身を貫いた理由は、人目を気にせずいつでも息子に会える環境だったから、それからもしかしたら、元夫の忠輝も仙台へ来ていたかもしれない。(2016発行の「星の街仙台~THE MASAMUNE CODE」の巻末に小説を掲載しています)
次回は【五郎八姫②】へつづく
出典:星の街仙台
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