これぞ仙台歴史ロマン★慶長遣欧使節 支倉常長は生きていた!?その1【宮城歴史浪漫シリーズvol.14】

歴史

こんにちわ、仙台藩の重鎮蘇らせ人ユーホーです。

歴史上では、支倉常長は失意のうちに帰国し、2年後に病死した’悲劇のヒーロー’として語られています。

その史実がひっくりかえる研究書を、数年前に「道の駅おおさと」で見つけました。

店内の端っこの棚の上に、ちょこんと数冊積まれていたのですが、ちょうど支倉常長について調べていた時期だったので手に取りました。

もしもそうでなければ、絶対にスルーしたであろう、地味な佇まいの冊子でしたが、中身がすごかった!

一冊購入して持ち帰り、読んだらビックリ!

その後、予備を買っておこうと再度道の駅おおさとへ行きましたが、完売しており、再版未定とありました。

それから1年くらいたって立ち寄った時に、再版されたその本が山積みになっていたので、10冊くらい大人買いしてきました。(200円/一冊)

常長さんは現大郷町で、84歳まで生きていたのではないか、イヤ、生きてたんださ~、と確信に近いような内容です。

おそらくこの本をご存じの方は少ないと思われますので、ここで是非紹介させていただきたい。

 

が、その前に、支倉常長という人物の偉業を知ってもらいたいと思います。

慶長遣欧使節(けいちょうけんおうしせつ)とは
-慶長18年(1613年)に仙台藩主伊達政宗がフランシスコ会宣教師ルイス・ソテロを正使、支倉常長を副使として、スペイン国王・フェリペ3世、およびローマ教皇・パウロ5世のもとに派遣した使節であるーwikipediaより

 

家臣団の中では、位の低い武士でしたが、なぜこのような大役に抜擢されたのかは、諸説あります。

一般的には、常長さんの父親の不祥事により、支倉家断絶の危機に陥った時、政宗公は常長さんにこのような試練ともいえる大仕事を命じ、起死回生のチャンスを与えたのではないか。といわれています。

東日本大震災からちょうど400年前の、慶長16年(1611)に起きた大地震の大津波で、仙台藩は甚大な被害を受けました。多数の死者を出し、沿岸部の農地は壊滅、城下の建物も崩れ落ちました。

そんな危機的状況の中で、わずか2年後に、政宗公はサン・ファン・バウチスタ号とともに常長・ソテロ率いる遣欧使節を、ヨーロッパへ送り出すのです。(船長はセバスチャン・ビスカイノ)

参考:石巻のサン・ファン館

*現在は見学不可となっています。

 

船には、あちら様へのお土産として、また一行が生活に困らぬようにと、金銀財宝などを積み込みました。

政宗公は、鉱山所有の武将では5本の指に入るほどの人で、しかも群を抜く洒落者ですよ。そりゃー土産物にも気合が入るというもんです。

しかし、3か月の往路の途中で嵐にあい、沈没寸前のときに財宝を海に投げ捨て、命からがらアカプルコへ寄港できたというシーンを、サン・ファン館のミニシアターで見ました。この映画は、短編ながら迫力満点で楽しめますよ。

仙台藩の船奉行や大工たちの粋を集めたガレオン船は、支倉家の家紋である逆卍(ぎゃくまんじ)と違い矢の旗をなびかせ、異国の港に突き進んでいきました。

生まれて初めて見る東洋人に、あちら様は驚きつつも歓迎してくれたのですが、数年に渡るヨーロッパの放浪記には、かなりの苦労もあったようで、そのまま現地に住み着く人もいれば、一行の生活費も底をつき途方に暮れた様子が、多くの書物で読むことができます。

政宗公の、遣欧使節の真の目的は、一般的には、政宗公からキリスト教トップへの親書に書かれた「仙台にキリスト教の本拠地を置きたい、貿易をしたい」というような内容です。

しかし、日本で厳しくなっている禁教令が、ローマ教皇の耳にまで届き、常長さんはローマ市公民権証書を授与されるも、通商交渉は失敗に終わります。

IDATE MASAMUNE

伊達は「だて」と呼んでいますが、ローマ教皇への親書には「IDATE]と書かれています。青葉神社の片倉宮司さんも祝詞を読むときには「いだて」と言うようにお父様の代から教わっていたそうです。だから本当は「いだて政宗」なのです。

 

この船は、一行をアカプルコまで連れて行ったあと、日本へと引き返しました。一行はそこから陸路とあちらの船を使ってヨーロッパまで旅します。

数年後に、一行を帰還させるため、サンファンバウチスタ号は再度太平洋を航海します。その時、政宗公の命でメキシコまで常長さんたちを迎えに行ったのは、仙台藩の土木エンジニア横澤将監-よこざわしょうげん(泉区将監の地名になっている)です。

サン・ファン・バウチスタ号は、日本に帰る前にフィリピンで2年間足止めをくらっています。禁教令が激化したため様子見だったのでしょう。

なにせ常長さんは”日本初のローマ教皇から洗礼を受けたキリシタン”なのですから。今帰国したらヤバイよヤバイよな状況です。

その間、フィリピン総督から、太平洋を2往復もしたこの船を”軍艦”に懇願され、売って、別の船で日本へ上陸しています。

常長さんたちは、7年の歳月をかけて、ようやく帰国できたわけですが、案の定あちら様から持たされたお土産類は、一部を残して(隠して?)焼却され、洗礼を受けた乗組員たちも棄教させられました。(横澤将監も)

 

几帳面で誠実な常長さんは、7年間の航海日誌を数十冊したためていたそうで、それが明治になるまで保管されていたという記録がありますが、その後散逸して見つかっていません。

そこになにが書かれているかがわかれば、日本初の『世界史に登場した外交官』としての偉業が、日の目を見ることになるでしょう。

常長さんは帰国して2年後に、病死したと、幕府に報告されています。

航海日誌も無く、大役も失敗に終わり、すぐに死亡した下級武士の物語は、そこで一旦終わってしまったのです。

 

ここまでが、一般的に語られている支倉六右衛門常長の半生です。

歴史の真実は、正史に書かれていることが全てとはいえません。その時代の権力者によって都合よく書き換えられることもあるでしょうし、作り上げられることも。

しかし、ひとりの郷土史家の地道な探求と史実調査によって、見えてくるものがあるんですね。

点と点がつながった時、「そういうことだったのか」と、納得できる歴史の世界が広がっていく。そんな本との出会いを次記事で解説していきます。

 

次回は【慶長遣欧使節 支倉常長は生きていた!?その2】へつづく

引用:星の街仙台