国内の観光・レジャーでは、「温泉旅行」がダントツトップの人気ではないでしょうか。
もともとは湯治(病気や傷の治癒)を目的にした医療として人々に認知されており、温泉での滞在は7日間を一回りとして長期滞在するのが主流だったようです。
仙台藩領には、鳴子・川渡・鎌先・秋保・青根など、全国的にも有名な温泉がいくつも存在し、歴代の藩主や藩士、著名な文化人も入湯に訪れていました。
【伝承千年の宿 佐勘】
なかでも秋保温泉は、なんと6世紀(←古墳時代)の欽明天皇の時代まで遡り、このとき天皇から「御湯(みゆ)」の称号を賜ったとされます。日本全国でこの称号を持つのは「名取」ー秋保、「信濃」ー長野県別所、「犬養」ー同野沢の3か所だけであり、これらは「日本三御湯」と称されています。
江戸時代初頭には、秋保に土着して温泉を管理していた佐藤勘三郎家(ホテル佐勘)が、仙台藩から湯守(ゆもり)に任命されました。
湯守の務めは、温泉を管理し宿屋を営業することで利用客から一定の入湯料を徴収し、その一部を藩に上納することでした。
しかしこの当時は、まだまだ観光地化にはほど遠く、利用者はごくわずかでした。江戸後期になって全国的に旅行者が増えたものの、天明の飢饉で湯元村内は多くの死者を出すなど被害が大きく、村の再建を図る必要に迫られます。
寛政13年、湯元村民は「村おこし」として、温泉を利用した村政の改革を決断し、村と佐藤家の間で一つの温泉約定が結ばれました。その内容は、
1、村が希望する場所に新しい浴場を工事する。
2、湯銭収入のうち、湯守の収益分の3分の1を村の振興のため、村中で受納する。
旅行者が落とす金銭を、村運営の資金とし立て直しを図る政策、”温泉”という土地の魅力を全面に打ち出した『観光地化』の始まりといえるでしょう。
しかしこの後も湯元村では、天保の飢饉に見舞われ窮地に立たされますが、このとき佐藤家は藩へ献金を行ったり、米の調達に奔走するなど村内外に渡って救済活動を行いました。そうして佐藤家は、この功績により上納する御役代が全額免除となりました。(天保7年-1836)
政宗公が、土御門家の当主(陰陽師)を仙台に招き接待したという記録からすると、佐藤家の営業する宿でのことでしょうね。
【秋保神社-勝負の神】
秋保で最も古い歴史として記されている秋保神社は、創建が今から1200年ほど前、平安初期の大同3年(808年)時の征夷大将軍坂上田村麻呂が蝦夷平定の折、この地に熊野神社を 祀ったのが初めと伝えられています。
室町時代には秋保村領主秋保氏の祖先、平盛房が信州は諏訪大神に本土回復を祈願したところ戦勝の御神徳を得た事から、諏訪神社の御神霊をこの地に勧請して祈願所とし「戦の神」として崇拝されるようになりました。
慶長5年には武家の守護神として伊達家に庇護され、正保3年には二代藩主忠宗公より伊達家の永久祈祷が仰せ付けられました。
現代では「勝負の神」として、スポーツ競技やレースなどの必勝祈願に遠方からも著名人の参拝が絶えないようです。最近では羽生結弦選手が参拝に訪れたことで有名になりました。
参照:秋保神社
【岩沼屋】
佐勘に次いで長い歴史を持つ岩沼屋は、寛永2年(1625年)にすでに営業していたとの記録がある老舗です。
屋号の由来ー元々公家(天皇に仕える貴族)であった橘家が、秋保に所領があり奥州へ下った際に、今の岩沼町付近まで来たところで日が暮れ、仕方なく土地の者に一夜の宿をお願いすると、快く受け入れ手厚くもてなしてくれたという。その後秋保の所領を経営していたが、言い伝えを聞いて育った源助が、「かつて先祖が岩沼の人々に篤いもてなしを受けた。今度は、私が旅人にとっての癒しの地を作ろう。」と旅籠を開き、言い伝えに因んで岩沼屋と名付けたというー
岩沼屋には、2019.12.25の日付入りで羽生結弦選手の直筆サインがあるようです。お泊りになったのでしょうか?奇しくも秋保で陰陽師つながりがあるとは、羽生様でも気がつくまい。
岩沼屋は今月、止む無く事業譲渡することを発表しました。地元企業がひとつでも無くなることは寂しく残念ですが、政宗公の時代から400年続く”観光地秋保”の発展を、これからもお祈り申し上げます。
当サイトの内容、テキスト、画像などの無断転載・無断使用を固く禁じます。許可なく使用が判明した場合には即時中止(削除)、使用料の支払、謝罪文掲載を請求いたします。