これぞ仙台歴史ロマン★五郎八姫②松島四大観のひとつ「富山」の観音堂と大仰寺【宮城歴史浪漫シリーズvol.28】

歴史

前記事(vol.27)の続きです。

これぞ仙台歴史ロマン★五郎八姫①隠れキリシタンの里愛子・栗生【宮城歴史浪漫シリーズvol.27】

五郎八姫は晩年、師事する洞水和尚(瑞厳寺100世で天麟院1世)の手引きで落飾*しています。(*身分の高い人が髪を剃り仏門に入ること)

キリシタンから仏教へ帰依したのには、幽清の影響があったかもしれません。

雲居禅師(うんごぜんじ)と洞水(とうすい)和尚

雲居希膺は1582(天正10)年伊予の生まれで、京都で修行したのち諸国を行脚。1636(寛永13)年、55歳の時に松島・瑞巌寺の住持になった。この時すでに伊達政宗は亡くなっているが、政宗は生前、瑞巌寺の再興を雲居に何度も願ったが断わられ続け、息子の忠宗は政宗から「いつか必ず雲居を説得するよう」遺言され、ついに叶ったのだった。

洞水は、日向国飫肥(宮崎県日南市)の生まれで雲居より前に松島に入り修行をしていた。雲居が瑞巌寺に入寺すると弟子になり、現在の瑞巌寺の法流の基礎を作った。

-洞水禅師が俗世を厭い、富山の幽谷の静寂を求め山中に独居し悟りの境地を深めんとする決意を述べたのに対し、雲居禅師は「若し時節を忘れたならば論議などというものがあるだろうか?物事の是非を離れれば、物も心も自ずから清らかなものだ。巷を嫌い山鶯に執着することなく、平等法を修めなさい。」「すでに功名心を離れれば苦など無い筈だ。市中だの山林だの、何故住処に迷う必要があろうか。君は十年は帰らないと誓っている。来た道を忘れるぐらい一生懸命修行しなさい。」雲居禅師は洞水禅師の閑寂を求める心に不徹底なるところを認めつつも最後は碧巌録34則にも引用される寒山詩の「安身の処を得んと欲せば 寒山 長しえに保つべし 微風 幽松を吹き 近くに聴けば声愈好し 下に斑白の人あり 喃喃として黄老を読む 十年帰り得ず 来時の道を忘却せり」をふまえ激励している。-

参照:宮城県塩釜市 / 臨済宗妙心寺派の松巌山 東園禅寺(宗教法人 東園寺)のホームページ

「富山-とみやま」は、松島町と東松島市との境界近くにある標高116.8mの山で、別名を”麗観”といい、松島四大観のひとつです。

松島湾の全景をほぼ一望できる景勝地となっており、筆者は四大観全部を回りましたが、ここ富山からの風景が一番好きです。

が、表・裏参道ともに車の通行には十分注意が必要。(バスツアーでは中型バスが運行しましたが、神業的なドライバーさんの技術のおかげ様でした)

山頂に、坂上田村麻呂が創建したという観音堂があり、その横に五郎八姫が寄進した梵鐘があります。

観音堂は五郎八姫が改修、中には観音菩薩像と、左に洞水和尚、右に田村麻呂の坐像が安置されています。(33年に一度のご開帳)

五郎八姫の母である愛姫は、福島の田村家出身ですが、田村家の祖先は坂上田村麻呂といわれています。

大地震で木像の首が折れ、中から出てきたものは

昭和の大地震のとき、洞水の木像が倒れて首が折れ、中から五郎八姫の遺髪、経典等が発見されました。

それらは瑞巌寺宝物館に非公開で保管されていますが、筆者は数年前に特別に見せていただく機会がありました。(ひとつひとつ撮影させてもらえたのですが、公表不可ということで残念ながら画像はお見せできません)

姫と侍女の遺髪、経典、銅鏡、金刺繍の布に包まれた小さな仏像など遺品の数々は、400年前のものとは思えぬほどの生々しさでした。

姫と侍女の髪の毛を見比べますと、あきらかに姫(享年67歳)のほうは栄養の行き届いた黒髪だったというのがわかります。

 

観音堂のすぐ下には、洞水和尚が開山した大仰寺があります。

雲居禅師の弟子だった洞水は、松島瑞巌寺で修行したあと、俗世を厭い富山の山中に隠棲したとされます。

このとき1644年頃で幽清は23歳くらいになっています。

根白石で養育され、青年になった幽清が、母親のすすめで洞水和尚の弟子となり、大仰寺に入ったのではないだろうか…

五郎八姫が亡くなると洞水は山を下りて天麟院を開山一世となり、その後をついで幽清が二世となり母親の菩提を弔いました。

また大仰寺には、五郎八姫から洞水に贈られたお手製の羽織が門外不出で保存されているそうです。

ここで特筆しておきたいのは、洞水は、木一本たりとも切ってはならぬというような、人を寄せ付けないオーラ満々で開山したこと。

それから観音堂の土台が「石積み」であることです。石積みの基壇というのは非常にめずらしいとのこと。

昭和の戦争で金属供出からも逃れた梵鐘があるほど、人が入り込まないこの山奥に、わざわざ石積みで建てたお堂。

「富山」は、星の街仙台的には非常に想像をかきたてられるミステリアスな聖域のひとつです。

大仰寺になぜか横澤家の墓が

↑311で墓石が倒れ、現在は別の場所に移されている。

横澤将鑑といえば、支倉常長の遣欧使節を迎えに行って仙台へ連れて帰った、仙台藩の土木エンジニアです。

将鑑は現泉区の治水事業で名をあげた人なのに(将監沼や将監団地はこの人の名からきています)、お墓がなぜ松島にあるのかずっと不思議に思ってました。

調べてみると(長年に渡る多数の文献や検索によるため特定の資料提示できません)この人はもともと国分氏の次子で、分家して横澤と名乗り、その後後継ぎが生まれず娘婿が継いだりなんだりかんだりしてるうちに斉藤家とつながって、結局は横澤家の子孫が松島の手樽(富山の裏参道の麓地区)を拝領したようなのです。

将鑑は常長一行を迎えに行った帰途のフィリピンで洗礼を受け、正式なキリシタンとして無事帰国したあと、政宗公から棄教させられます。

土木エンジニアとして優秀だった将監ですから、藩にとっては常長同様、生きていてほしい人材だったのでしょう。

将監は根白石近くの赤坂という山の中で、ローマから持ち帰ったキリシタン関連グッズをすべて焼却したと古文書にあります。

それでそのあたりに将監沼を作って「赤坂の将監さん」と呼ばれていたようです。

焼いたのはたぶんダミーでしょうけどね。

この時も藩ぐるみで幕府の目付を欺いたのではないでしょうか。

 

『麗観富山』は、アクセスが困難ではありますが、それゆえ、俗世間から隔離された雰囲気と絶景が楽しめますよ。

あえて風景写真は載せないでおきます。長い石段を登って、ようやくたどりついた山頂の東屋。その眼前に広がる松島湾の美しさといったら、思わず「うわぁ~」と声があがります。

是非、晴れた日におすすめします。(震災後、大仰寺の横にきれいな公衆トイレが出来ました。ありがたや)

 

次回は【五郎八姫③】へつづく

これぞ仙台歴史ロマン★五郎八姫①隠れキリシタンの里愛子・栗生【宮城歴史浪漫シリーズvol.27】

これぞ仙台歴史ロマン★慶長遣欧使節 支倉常長は生きていた!?その1【宮城歴史浪漫シリーズvol.14】

出典:星の街仙台


当サイトの内容、テキスト、画像などの無断転載・無断使用を固く禁じます。許可なく使用が判明した場合には即時中止(削除)、使用料の支払、謝罪文掲載を請求いたします。