久保姫は、陸奥国磐城領主・岩城重隆の娘で、伊達政宗の祖父・晴宗の正室となり、政宗公の祖母にあたります。
久保姫は奥州一の美少女として名高く、えくぼが出ることから「笑窪御前」とも呼ばれていました。
当初白河城主・結城氏のもとへ嫁入りすることが決まっていましたが、晴宗は久保姫の美しさに一目ぼれしアタックするも叶わず、輿入れの道中、待ち伏せして襲撃し姫を略奪したとされます。(←誘拐ですよ?犯罪ですよ?姫はまだ10代の未成年ですよ?)
ところが、ふたりの夫婦仲は良好で、怒り狂う久保姫の父重隆を姫が説得し、男子に恵まれなかった岩城家に第一男子を養子にするという条件を飲み、約束通り最初に生まれた男子を差し出し和解しました。
こうして、長男は久保姫の実家である岩城家を継ぎ、二男を伊達家の嫡男としたのでした。
現代ではありえない、”人さらい”という衝撃的な出会いをしたふたりでしたが、その後もラブラブで、晴宗は生涯側室を持つことなく、久保姫との間に6男5女をもうけます。嫡男となった男子が、伊達輝宗・政宗公の父です。
真田幸村の遺児のうち4人は、白石片倉家に囲われて生き延び仙台真田家へと繋がりました。五女「お田姫」は、京都と江戸を転々とし、その後出羽亀田藩主・岩城宣隆の側室(のちに継室)となります。(宣隆の母は、伊達晴宗と久保姫の娘)つまり、お田姫と政宗は親戚筋となりました。
歴史をたどってみると、真田家と仙台藩は運命的な”縁”があるようです。
もしも久保姫が、晴宗のハートをわしづかみにするほどの器量じゃなかったとしたら…政宗公は生まれていなかったかもしれない。
そうなると、この仙台という街も在ったかどうか…
歴史の表舞台にはほとんど登場しませんが、久保姫(栽松院)の存在はとても大きいのです。
そして政宗公は、母親よりも祖母に可愛がられ、政宗もまた祖母を大変慕っていたようです。
1578年(天正5)に晴宗が亡くなると、久保姫は髪を下ろし、亡き夫の菩提を弔う日々を送ります。
その後、豊臣秀吉の奥州仕置により、伊達家は領地の信夫・伊達両郡を失ったため、政宗は岩出山城へ、それに伴い久保姫も白石城(現・仙台市泉区根白石)へ移ります。
1594年(文禄3)久保姫は亡くなり、亡骸は晩年を過ごした根白石の白石城内の屋敷跡に葬られました。法名は栽松院殿月盛妙秋禅尼大姉。
政宗は亡き祖母の供養のため、墓所の他に仙台城下(現・仙台市若林区連坊)に久保姫の法名からとった栽松院という寺を創建し、位牌所としました。
根白石の古刹【満興寺】
政宗公が栽松院のお墓参りのたびにご休憩所としていたのが満興寺です。
満興寺第11代光達長老のとき、政宗公が立ち寄った際のこと。
ご案内した和尚に向かって政宗が「白石に住む僧なら、地名にちなんで白い衣を着ればいい。なぜ黒衣なのだ?」とふざけてお訊ねになった。
そこで光達和尚はすかさず答えた。「白石に住み着く(墨付く)ゆえに黒染めの衣にございます」
政宗は、この粋な返しを気に入ったのか、その後たびたび満興寺を訪れ、門前にお仮屋を建て何度かお越しになったそうです。
上画像左側-政宗公と祖父・祖母の3人のお位牌が祀られているのは大変めずらしいことです。
上画像右側-歴代住職のお位牌は圧巻です。
次回は【根白石は伊達家のわけあり重鎮を匿った隠れ里だった!?】へつづく
出典:星の街仙台
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